専念寺について


2013otera13<名 称>

梅澤山 専念寺

<宗 派>
浄土真宗東本願寺派

所在地
富山県黒部市生地山新937
tel & fax  0765-56-8074 →地 図

 


歴 史
当山は桓武平氏の嫡流である畠山庄司重能(武蔵国)の子、次郎重忠(鎌倉幕府の御 家人)を祖先とする。

畠山次郎重忠の子、小次郎重秀は京都洛北西栂尾の明惠上人の弟子となり惠空と称する。後に宗祖親鸞聖人の弟子となり証性房と号する。証性房は関東二十四輩(親鸞聖人の直弟子二十四人)第八番蓮生寺(福島県東白川群柵倉町)を開基した。

証性房の子、畠山信了は寺侍(野坂一角、島尻喜兵次)と共に富山県入善町上飯野臼ノ森で専念寺を開基した。

其後、黒部川の氾濫により生地浦に寺院を移した。

文禄元年(一五九二年)十一月、本願寺十一世顕如上人が入寂する。長男教如上人が十二世の法燈を継ぐも、翌文禄二年、母如春尼は三男准如上人に本願寺法主を譲るとの顕如上人の譲状を豊臣秀吉に提出した。秀吉の認可を得、本願寺法主は准如上人(三男)に譲られた。

この時、専念寺十一世畠山正宗は長男教如上人を擁立する。つまり秀吉の命に反逆した。そのため、畠山正宗は前田利家の命により、慶長二年(一五九七年)七月六日、富山城下いたち川の河原で、新藏(役僧)と安城寺住職と共に、斬首の刑に処せられた。これにより寺院は焼き打ち、寺宝は井波の瑞泉寺と伏木の勝興寺へ収まった。家族は越後国糸魚川早川谷の奥地に逃れた。

其後、慶長七年(一六〇二年)二月、徳川家康は教如上人へ京都烏丸七條の地を寄進し、東本願寺は独立した。この時に本願寺は東西に分派したのである。

同年、畠山正宗の長男祐正は生地浦へ戻った。其後、上洛して教如上人より御本尊、九字十字御名号、宗祖聖人御影、教如上人寿像等を拝領して寺院を当地に再興した。

東本願寺第十七世真如上人より、畠山正宗は稀にみる秀でた僧侶であったという意味で「秀」の一字をいただき「正秀」という法名を賜った。

寺宝は年に一度、盂蘭盆会に御開帳される。

越後国に逃れた次男以下は鷲尾姓を名のり、次男は専福寺(長岡市十日町)、三男は光專寺(長岡市福道町)、四男は本願寺派託念寺(長岡市前島町)を開基した。

2013otera09現在の専念寺本堂は明治十三年より五ヶ年の歳月をかけて建立された。門徒会館は昭和五十九年三月完成した。